【塾長室だより】No. 21 大学と日本の危機-再考

慶應義塾公式サイトに 塾長室だより No. 21が掲載されましたのでご紹介させていただきます。(引用元: https://www.keio.ac.jp/ja/about/president/blog/2024/2/27/379-157072/

塾長室だより No. 21
大学と日本の危機-再考

2024/02/27

慶應義塾長 伊藤公平

IDE大学協会の機関誌『IDE 現代の高等教育』が、2024年1月号において「危機を好機に」という特集を組みました。そこに私が『大学と日本の危機-再考』と題した記事を寄稿したところそれなりの反響を得たので、同協会の許可を得て、以下に記事を再掲します。以下の見出しの1と2がIDEに掲載した原文で、今回の塾長室だよりでは、さらに3と4を書き足しました。

『大学と日本の危機-再考』

1. ウサギとカメ

イソップ童話の『ウサギとカメ』では、本来はウサギが速いのだが、油断や昼寝をしてしまい、結果的に地道に着実に休まずに進んだカメに負ける。ここで私たちは「カメのように真面目に進めばよいことがある」と教えられた。ところがものは捉え方である。米ディズニーのアニメでも同様の『ウサギとカメ』の話を取り上げ、それを観た米国の子供たちは「このウサギのように怠けると、本来負けるはずのないカメに負ける」と教えられたという。結局、米国人はウサギ、日本人はカメと自分のことを見ているようだ。

私の専門を例に考えると、1940年代後半に米国でトランジスタが発明され、それを集積して実用化するために必要な科学の理解と技術の開発はまずは米国を中心に進んだ。まさにウサギである。ところが1970年代後半から日本の電子産業が勤勉な工夫と努力を重ねて半導体集積回路を発展させ1980年代後半には日米通商問題に発展するまで日本の半導体素子シェアは世界ダントツになった。カメとしてトップに立った瞬間であった。ところがウサギが怒った。日本人は改良が得意だが、発明は苦手、すなわち創造性に欠けていてヒト真似ばかりと揶揄され、これを真面目に受け止めた日本は反省した。そこでバブル崩壊後の1990年代中旬より、基礎研究から産業化までを一気通貫で進める科学技術基本計画が始まり、科学に対する潤沢な予算投下が10年ほど続いた。そのころから日本人のノーベル賞ラッシュが始まった。日本の基礎科学は、実は科学技術基本計画が始まる前から非常にレベルが高かったことをノーベル賞ラッシュが裏付け、ノーベル賞という観点からは、これからもこのトレンドはもうしばらく続くと考える。科学技術基本計画によって日本の一部科学者の間で創造的な成果が大いにあがったからだ。しかし2010年ごろになると、復活しない日本経済に対する焦りが表面化し、多大な基礎研究の成果を産業化に繋げられていないという自己批判が始まった。例えば、量子コンピュータの基礎的な発明や発見は1990年代後半に日本の研究者が行ったのに、それを産業化したのが欧米の会社ばかりという自己批判。さらに最近では基礎研究の分野においても日本の存在感が落ちているという。

自己批判は大切だが、何が問題なのかは整理する必要がある。日本全体で本気でウサギの集団を目指すのであれば、些細な失敗やマナー違反などを気にもとめず、得点主義を徹底する教育や社会の構築が必要となる。小学校から伸びる子は徹底的に伸ばして格差は気にしない。会社でも伸びる人だけが生き残り、終身雇用という概念は取り除き、成績の悪い従業員は解雇する。国全体がウサギによって繁栄するためには、世界中からウサギを集め、競争原理を導入する。ウサギは自分たちが突き抜けることを求めるので、利害関係が一致するウサギたちが協力して先頭集団を形成する。国の経済や学会などは一部のウサギ集団によって強力に引っ張られるであろうが、格差はさらに広がる。ウサギたちが十分な税金を納めることによって国家予算が潤沢になり、下々の生活もしっかりと支えられる。しかし、このようなウサギ流が日本に馴染むであろうか?

私は米国の大学院で学び、1995年に日本の大学で教職に就いて以来、欧米とアジアの違いに興味を持ちながら、失われた30年の日本を見つめてきた。半導体物理と量子コンピュータを専門とする私の研究室は2010年ごろには留学生が半分を占めた。フランス、ドイツ、スウェーデン、スペイン、アメリカ、イギリス、韓国などから大学院生が集まり、いよいよ欧米型のウサギ主義の研究室ができると思った。先輩後輩の上下関係がなく、実力主義で、アメリカで私が経験したように実験装置を取り合うといった貪欲な集団になるかと思った。ところがである。集まった留学生は日本の文化を尊重し、自分が研究室に入ったときに先輩たちが丁寧に面倒を見てくれたことに感謝し、同じことを後輩に施す。日本語も学ぶ。ただし研究室での発表や議論は自然と英語が標準となり、研究室合宿は留学生のアレンジで日本人も知らない様々な日本の名所を回るようになった。留学生たちの効率性も高かった。朝早くに研究室に来てしっかりと働き、昼休みをみんなで楽しみ、夕食前には帰って行く。議論好きなので、日本で育った学生たちも自然と巻き込まれる一方、留学生も空気を読むことによって和を保つ日本流を楽しみながら、研究室としてのレベルが一気に上がった。英語での論文執筆となると留学生たちの力量は圧巻であり、日本で育った学生たちは舌を巻きながらも、自らの執筆を手伝ってもらえた。要はラグビー日本代表のように、研究室としては日本流を保ちながらも、世界から優秀な人々が集まる状況ができたのである。結局日本のスタイルはカメなのだ。留学生たちも日本のカメ社会の特徴と長所を実感し、卒業後には日本での就職を選ぶ者もいれば、世界に出ても当然のように活躍している。今の日本では強力なリーダーシップや突き抜ける力が表面的には持て囃されるが、大谷翔平選手のように、大好きな野球に対して着実かつ工夫に満ちた練習を徹底し、一歩一歩階段を登った結果として、気がついてみると誰よりも高い頂に登っているカメ的な美学こそが日本らしさの真骨頂なのである。日本から多くのノーベル賞が出るのも、激しい競争をした結果ではなく、自らの好奇心に基づき着実かつ工夫に満ちた研究に没頭できる環境を日本が整えていたからである。和をもって尊しの精神を重んじ、教育やビジネスにおいても間違わないことが重視する減点主義の日本であっても、カメとしてどこまでも成長できる環境さえ整えれば、大谷選手やノーベル賞受賞者が生まれてくる。ところが、グローバルスタンダードという名の下で、西洋流のウサギシステムが日本でも持て囃されるようになった。ガバナンス、コンプライアンス、格付け(ランキング)といった本来は得点主義のウサギ集団を対象とする指標を直輸入する。それによって改善されることも多い一方で、一切の減点を避けたい真面目なカメたちは、ガバナンスやコンプライアンスの完全遵守に過剰な労力を割き、欧米で持て囃されるトレンドに引っ張りこまれることによって、我が国が誇るカメ流の研究やビジネスの前進が止まる様子が見受けられる。グローバルスタンダードを導入しても、そのシステムをカメのために正しく改良することができなければ、カメの体でウサギのような運動能力を発揮することを強いられてしまい、どっち付かずの袋小路に入ってしまう。これが、私が考える日本の現在の危機である。

2. 危機脱出のためにも正しい第二の開国を

野球、ソフトボール、サッカー、ラグビーの日本代表チームは男女ともに世界レベルで強い。野球、ソフトボールやサッカーでは世界のトップリーグで切磋琢磨する日本人選手が主力となる一方、ラグビーでは世界のトップ選手を日本に招くことにも力を入れ、その一部が日本代表として活躍する。昔で言うところの”助っ人集団”ではなく、海外からの選手が日本チームの一員として日本ラグビーの伝統を大切にし、日本語も学ぶ。結果として日本で育った選手たちのレベルも一気に上がってきた。シェイクスピアの物語詩『ルクリース凌辱』の中の名句であり、ラグビー精神としても知られるOne for all, all for one(一人ひとりが全員のために、全員が一つのチーム・目標のために)は実は日本的なカメ流の真髄であろう。

このような観点から今の日本の大学の危機は明らかである。一人ひとりの教員はすべての学生のために一生懸命に教育に携わっているが、大学という単位では、一つのチームとしての存在意義や一つのチームとしての目標が共有できていない。いや、一つのチームとして、今の社会とこれからの社会を先導するための目標が設定できていないので、共有もできないというのが現状であろう。大学の宝は表現の自由、学問の自由、人権の最重視といったリベラル精神や民主主義であるが、その先にある目標が、個々人の安住と幸せという利己的なものであってはならない。学問によって人間や社会を豊かに平和に導くという崇高かつ大学ならではの利他的な目標を共有し、それぞれの大学が建学の精神に基づき、独自の創造性を発揮することが肝要である。それは大学執行部の仕事であり責任である。本稿の著者である私もそのことを痛感している。

メディア等が盛んに議論する、我が国の大学が直面する危機は多数ある。研究力の低下、教育内容の硬直化と社会的要望からの乖離、国際性の欠如、世界大学ランキングの低迷、財務状況を含む大学経営力の低迷等々、残念ながら枚挙にいとまがない。しかし、すでに述べたとおり、ウサギ用の指標で自分たちを評価することこそが大学や日本社会の危機である。日本の直近の問題は、人口の分布が極端に高年齢にシフトし、働き手とのバランスが崩れていくことである。だから海外から優秀な学生を集め、一人でも定住させたいということであるが、世界大学ランキングが低いと世界から優秀な学生が集まらないという。しかし、西欧が作ったランキングに参加して、本来は西欧を目指す学生を奪い合いすることが得策であろうか?私は、世界に広がる日本人の外交・ビジネスネットワークを活かして、日本に興味を抱いてくれている若者をどんどんと推薦してもらい、日本の大学等で受け入れて、日本の大学生と混じってもらいながら、育てていくことが何よりも必要だと思う。基礎学力という日本の定義に照らし合わせて、当初から優れた留学生が集まるとは限らないが、誠実で努力を重ねることができるカメ型の留学生を一人でも多く集めて、着実な学びを進めてもらうことで、ラグビー日本代表のような日本を作っていけないだろうか?これは大学が単体で進められることではない。初等中等教育も一体となって世界中からカメを集めることを国策として進める必要がある。世界中からカメが集まれば、日本文化と日本語の愛好家が増え、日本人の自らの文化の理解と英語力と多様性への対応も一気に進歩する。日本から海外への留学を増やすことも必要であるが、今の勢いで高齢化が進み、高齢者中心の政策がさらに進むであろう日本に、世界を経験した若者が戻って住みたいと思うだろうか?日本から海外への移住は戦前の日系移民のトレンドと思われるかもしれないが、このままでは、これから海外に移住する新しい日系一世が増える可能性が否定できない。海外から日本への移住は増えず、日本から海外への流出が増えれば、日本の空洞化は進む。だからこそ、日本は幕末の時代に次ぐ第二の開国を政策として強力に進める必要がある。その受け皿として教育界と産業界が大胆に進化し、我が国が世界の発展に寄与する新しい道を模索することが、危機を好機に変える一つの道なのではと思う。
(以上が『IDE現代の高等教育』に掲載された記事の再掲)

3. カメにふさわしい学びの環境とは?

カメに必要なのは、i)好きな科目や趣味がとことん追求でき、ii)そのことが周りから尊敬され、iii)その特技を仲間に教えることで周りに加えて本人までが学びを深められる環境だと私は考える。i)が大谷翔平選手やノーベル賞につながる学びと挑戦のための環境であり、好きこそものの上手なれという個性を伸ばす環境である。ii)は多様性の原点となる環境である。「男の子であればスポーツ!」といった画一的な学びの環境では個性は伸びない。性別に依らず、算数が得意、絵が得意、踊りが得意、将棋が得意、ボランティア活動が好きといった様々な個性を互いが尊敬して認め合う社会を作っていくことである。科目や趣味の違いでの優劣はない。好奇心を持って互いのことを知る環境が必要であり、そのためにも互いに教え合うiii)の環境が大切であり、ここからチームワークが育まれていく。まさに独立自尊の精神に則って自らを尊び、だからこそ周りも尊ぶ。そして、「一身独立して一国独立する」の教えのとおり、個々の独立とつながりを仲間同士での独立につなげていく。

要は、今のように、学年で縛ってそれぞれの教科の進度を制限してしまうと、着実に伸びるはずのカメの伸びが成長途上で頭打ちにされてしまうということである。例えば、小学校レベルから、算数が好きな生徒はさらに上の学年のカリキュラムへの挑戦を自然な形で促すと同時に、クラスの仲間に算数を教える機会を与える。タブレットやAI技術を使えば、ゲームでステージをクリアするように学年の枠を超えたレベルアップが可能で、一人ひとりの生徒のカメとしての着実な伸びが阻害されずに済む。大谷翔平選手の例に戻れば、野球という分野において自らの着実な発展が得られる環境を彼は選択してきたし、裏を返せば彼にはそのような環境が選択肢として用意されてきた。そしてプロレベルでもピッチャーとバッターの二刀流という常識外れの環境を北海道日本ハムファイターズが整備した。このような環境を様々な科目や課外活動で準備していくべきであろう。

一方で、最低限の総合力は保証する学びの場を整備することも大切となる。誰にでも求められる能力、すなわち、吸収する力(読む力、聴く力)、発信する力(書く力、話す力)、解析して計画する力(論理性、算数、ITツール)、作る力(理科、技術)、交流する力(議論する力、協働する力)を総合的に学ぶ環境整備が必要となる。学校に求められるのは、この最低ラインを保証しながら、一人ひとりのカメがそれぞれの得意領域で進み続けるための環境の整備である。国語・算数・理科・社会・英語(語学)といった科目の知識に関する部分は、授業の中で個々人がタブレットを用いて自分のレベルで学びを進め、教員は最低ラインの確保や集中力の養成に力を注ぎ、進行が速い生徒は時間を割いて他を教える。作文、論文作成、実験、芸術、工芸、音楽、スポーツ等の実技の科目やクラブ活動でも、レベルアップすることで他から尊敬され、そして、他を教える経験を導入する。その上で大切なのが実践である。大谷翔平選手が伸びたのは野球という実践を通して成功も失敗も体験し続けたからである。何のために学ぶのか?それは社会をよくするためである。発展させるためである。よって、早くから生徒・学生が力を合わせて世の中を発展させる活動に取り組むことが特に求められる。様々な状況を観察し、吸収し、考え、議論し、改善案をまとめ、活動に移す取り組みである。OECDが実施する15歳の生徒を対象に数学、読解力、科学のリテラシーを調査したProgramme for International Student Assessment(PISA)の結果によると、2022年の時点で日本の15歳は数学と科学でOECD加盟国中1位、読解力はアイルランドに次いで2位と極めて高い評価を得ている。一方、同じ2022年に日本財団が行った「18歳意識調査第46回 -社会や国に対する意識(6カ国調査)-」によると、日本、アメリカ、イギリス、中国、韓国、インドの中で、日本の18歳は以下の6つの質問に対する「はい」の割合が目を覆いたくなる大差でのビリである。「自分は大人だと思う」、「自分は責任がある社会の一員だと思う」、「自分の行動で国や社会が変えられると思う」、「国や社会に役立つことをしたいと思う」、「慈善活動のために寄付をしたい」、「ボランティア活動に参加したい」。このビリは何を意味するか?野球に例えると、筋力や走力やテクニックという個別のランキングではトップだが、野球というゲームをしたことがない、または、野球というゲームに活かすことができていないということである。これでは何のための学びだかわからない。大学入試のための学びだとしたら、ますます、大学の入試のあり方を考え直す必要がある。

4. まとめ -非西洋諸国の近代化は可能か?-

国際協力機構(JICA)前理事長で東京大学・立教大学名誉教授の北岡伸一氏は、最も尊敬する人物として福澤諭吉をあげている。その北岡氏は著書『独立自尊 -福沢諭吉と明治維新-(筑摩書房)』の中で、福澤が生涯追い求めた問いが「非西洋諸国の近代化は可能か?」であり、その実現方法の模索こそが福澤の人生だったことを紹介している。そう、現代においても日本の日本らしい近代化を実現することこそが今の私たちに受け渡されたバトンなのである。福澤先生は著書『学問のすゝめ』において、人間の価値は学ぶか学ばざるかによって決まるものであり、学び続けることによって職分(仕事)を全うすることがその人の価値、すなわち、名分(尊敬や役職)につながると述べている。生まれた家や境遇によって名分が決まるのではない。また『文明論之概略』の中では、日本に存在する先輩後輩(年功序列)、男子女子、新参古参、本家末家といった主従関係や権力の偏りの問題を指摘している。このような実力に基づかない主従関係は、主側に位置する者の怠慢を招き、全体をコントロールする立場にある者が真摯に学び続けることを妨げる。先の第一節で私の研究室における留学生の事例を紹介したが、研究室に先に入った者が研究のやり方や装置の使い方を新参の学生に教えるのは、年功序列による先輩だからではなく、先に学びを重ねた結果として実力的に教える立場にいたからである。留学生が、年代的には先輩にあたる学生の英語での論文執筆を助けてあげるのも実力による協調の好例である。ここに主従関係や権力の偏りは存在せず、同等の立場でありながら、教えることができる人が他を助けるという、実に日本的な和が生まれていたのである。

ここまでの、教育を中心とした話の延長は明らかであろう。日本の職場においても同じことを実践しなければならない。年功序列、性別、国籍、学歴といった差別要素を排除して、誰もがカメとして伸び続ける環境を用意することが望ましい。同時に、実力者が他の仲間を助ける活動を奨励して、それを皆が感謝し評価することが、様々な違いを乗り越える平等な職場の形成につながり、結果として互いに尊敬し合いながら皆で前に進めるチームが形成される。そして重要なことは、「ウサギとカメ」の話が、結局は誰が勝つかという競争であったことだ。大谷翔平選手も野球に勝ちたいという一心で実力を伸ばしてきた。仲間同士で力を合わせ、真剣勝負として、非西洋国である日本の新しい近代化を成し遂げるためには、西洋のルールやコンプライアンスやガバナンスを後追いするだけではなく、自らの価値観に基づき、競争と協調を組み合わせた社会システムを作り上げていく必要がある。その実現によって、日本が協調的なカメ型人材にとって魅力的な国となり、海外から人が集まるのみならず、世界を経験した日本人が母国として帰りたい国となるのであろう。