Keio Times(肉乃小路ニクヨ君)
(2024年2月26日 公開)
『Keio Times』に卒業生 肉乃小路ニクヨ君(総合政策学部卒)のインタビュー記事が掲載されましたので、ご紹介させていただきます。(引用元: Keio Times(特集)一覧)
この記事は現在、当会サイトのアクセスランキング第一位となっています。(2024年7月5日 追記)
「私は慶應卒の金融エリート 肉乃小路ニクヨのお金の相談所を拝読したのがきっかけで、ニクヨさんのファンになりました。『元外資系金融エリートが語る価値あるお金の増やし方』(肉乃小路ニクヨ / 著)は、現代における正しいお金の増やし方・使い方のポイントをわかりやすく教えてくれる一冊です。」(事務局長 山形)
(以下の記事は『塾』AUTUMN 2023(No.320)の「塾員山脈」に掲載されたものです。)
ピンチはチェンジのための絶好の機会。
メディアを通して多くの人と学びを分かち合う
卒業生 肉乃小路ニクヨ君(総合政策学部卒)
2024/02/26
肉乃小路ニクヨ(にくのこうじ にくよ)/ニューレディー
1999年総合政策学部卒業。大学在学中より女装家、ドラァグクイーンとしての活動を開始し、1999 年に開催されたドラァグクイーンの全国大会「DIVA JAPAN」で優勝。大学卒業後は証券会社、銀行、保険会社に勤務しながら、女装家、ショーガールとして活動する。42 歳でフリーランスの女装家となり、コラムニストとしても活動。2019 年には「肉乃小路ニクヨ」公式YouTube チャンネルを開設し、2023 年8 月現在、チャンネル登録者は約8 万3000 人。品格あるファッションを心がけており、肩書きも「ニューレディー」と名乗っている。
人と違う自分を意識しながら
「コミュ障」として過ごした10代
-ニクヨさんは金融・証券、保険業界での勤務経験があり、YouTuberやコラムニストとしても幅広く活躍しています。子どもの頃から、多才で活動的だったのですか?
ニクヨ:とんでもない! 今の私しか知らない方は意外かもしれませんが、10代までの私は本当に内気で、ひどい「コミュ障」でした。姉二人がいる末っ子の私は、年上に囲まれていたせいか、学校の同級生とはあまり話が合わなかったのです。そんなわけで友達も少なく、家でテレビばかり見ていました。運動も苦手でしたが、なぜかプロ野球は好きで、それが数少ない同年代男子との接点でした。何が面白いかというと打率や打点、本塁打、投手の勝ち数や防御率、あるいは球場の観客数など、データ数字の推移を見るのが楽しかったのです。小学生の頃から新聞をよく読んでいて、野球の試合結果が掲載されているスポーツ面以外では株式面も熟読していました。テレビCMで社名を知っている会社の価値が、日々株価という数字で評価されていることに小学生だった私はワクワクしていました。後年、金融・証券などの仕事をするようになったのも、この生来の数字好きに関係しているかもしれません。
その後、中学受験を失敗して、高校は地元の進学校に進みました。実は慶應高校、志木高校も受験していましたが、どちらも不合格でした。そのことが本当にショックで、高校入学後はしばらく誰とも口を利かなかったぐらいです(笑)。今は誰も信じてくれないかもしれませんが、私、そんな暗い10代を過ごしていたのです。
-ニクヨさんは読書好きだそうですが、中高生時代から本はよく読まれていましたか?
ニクヨ:はい。中学生の頃は堺屋太一さん、高校時代は落合信彦さんが大好きでした。官僚出身で経済企画庁(現・内閣府)長官としても活躍された堺屋さんからは高付加価値を生み出す人間の知恵の重要性を学んだと思います。落合さんが描く米国政治や石油ビジネスの世界に登場する、情報とインテリジェンスを活用してグローバル社会で活躍する人々にとても憧れました。自分も米国の大学に留学して国際ビジネスの世界に飛び出したい……でも、コミュ障の私にはそんなことはとてもムリ。そこで日本の大学で米国のリベラルアーツに最も近い大学はどこだろう、と探し当てたのが湘南藤沢キャンパス(以下、SFC)でした。SFC設立に尽力され、初代総合政策学部長になった経済学者の加藤寛先生は私の憧れの人でした。「加藤先生に教わりたい!」。その一念でSFCにターゲットを定めて受験勉強に取り組み、今度こそ合格を果たすことができました。
-入学時は環境情報学部で、その後、総合政策学部に転学部されていますね?
ニクヨ:そうなんです。入学してから社会科学系を重点的に学びたいと思うようになり、総合政策学部に移りました。しかしそれ以前に、SFCに入学した私はコミュ障をこじらせてしまい、他の学生と親しく交流することができませんでした。裕福そうな学生が華やかなキャンパスライフを過ごしているのを横目で見ながら気後れしてしまって……。入学直後に当時、新入生が参加するフレッシュマンキャンプという宿泊行事があったのですが、そこでセクシュアリティを含めて「みんなとは違う自分」を改めて意識させられたことも引きずっていました。
さらに1年生の夏休み、父ががん宣告を受けました。私は当時湘南台で一人暮らしをしていましたが、千葉市の実家に戻り、そのまま大学には行かなくなりました。結局、1年間休学し、翌年の秋に父を看取りました。父には私のセクシュアリティのことを最後まで言えませんでした。その後悔もあったのでしょう、私は同性が好きな自分をホモフォビア(同性愛や同性愛者に対する嫌悪や恐怖)から守り、自分らしく生きるための「理論武装」として、同性愛にシンパシーのある作家の橋本治さんや新宿二丁目のゲイの人たちが書いた本を読みまくりました。特に橋本さんの著書からは自己肯定感を高めてくれる示唆をたくさんいただきました。「人間誰しもいつかは死んでしまう。後悔しないよう自分の生きたいように生きるべき」と背中を押されました。
昼は男性として働き
夜はドラァグクイーンとして活動
-そして大学に戻られたわけですね。
ニクヨ:はい。まず休学中に始めた塾講師のアルバイトでためたお金でパソコンを買いました。学業のためだけでなく、パソコン通信のゲイコミュニティで仲間を見つけ、一念発起して実際に新宿二丁目にも足を運びました。おかげでゲイの友達もたくさんできて、やがて私が中心になってゲイサークルを立ち上げ、ゲイの学生サークルを集めたクラブイベントなどを開催するまでになりました。大学に復帰したものの、ドラァグクイーンとしての活動が忙しくなってしまい、SFCの成績はひどいものでしたけど、面白い講義はたくさんありましたね。今でもよく覚えているのは当時ボストンコンサルティンググループの日本法人社長だった堀紘一さんが講師を務めた組織論に関する講義です。堀さんのお話しぶりも面白かったですし、そこで学んだ組織のノウハウは私がゲイコミュニティという組織で生きていくためにも大いに役立ちました。
-卒業後、証券会社に就職されました。
ニクヨ:はい、ところが入社直前の3月末、いきなり私は劇症肝炎にかかり、入院してしまいました。同期の新入社員が仕事の研修を受け、社会人としてのスタートを切った4月いっぱい、私は病院のベッドで過ごしていたのです。入院中、会社から送られてきたテキストで証券の外務員資格試験の勉強をして、5月には出社したのですが、病み上がりで体力が続きません。結局6月には退職してしまい、その後の人生の流転が始まります。
最初は証券会社のコールセンターでのアルバイト、次に銀行で派遣社員として働き、夜はドラァグクイーンとしての活動です。銀行は教育制度が充実していたので、投資信託などを勉強し、保険販売の資格も働きながら取得しました。でも30歳を目前にしたとき、改めてこれからの人生について悩むことになります。SFCの同級生たちはすでにキャリアを積んでおり、差をつけられてしまっているという焦りもありました。とにかく正社員として働こうと、外資系保険会社に転職。正社員になって何がうれしかったかといえば、やはりボーナスがもらえること! がむしゃらになって働き、マネジャークラスにまで昇進しました。
-そのままビジネスマンとして出世していく人生もあったわけですね。
ニクヨ:ところが30代後半に働き過ぎで体調を崩してしまいます。仕事自体は好きだったのですが「自分はなぜこんなにムリして働いているのだろう?」という疑問が心の中に生じました。気がつくと好きだった女装もおろそかになっていて……そんなとき、何げなくテレビを見ていたら、一緒にドラァグクイーンとして働いていたマツコデラックスさんや慶應義塾の同級生でもあったミッツ・マングローブさんが画面の中でイキイキと活躍されていたのです。目を開かれた思いでした。折しも東日本大震災の余波で勤務先が日本での事業を縮小し、私も正社員をクビになりました。「このピンチはチェンジのための絶好の機会!」。そう思ってもう一度ドラァグクイーンとして輝くことを目指しました。
しばらくは一度解雇された保険会社に復帰して働いていたのですが、5年ぐらい生活できるだけのお金がたまったので、42歳で完全にフリーの女装家になりました。新宿二丁目のお店で接客の仕事をしながら、これまでの経験をベースにWeb媒体で恋愛相談など物書きの仕事も始め、それがやがてYouTuberとしての活動につながっていきます。テレビ番組にも呼ばれましたが、最初は緊張でうまく話せませんでした。それでもYouTube動画の制作を通して人前で話すノウハウを少しずつ学び、今ではテレビ番組でも平常心で話せるようになったと思います。
自分が学んだことを
多くの人と分かち合いたい
-働きながらの資格取得や最近では英語の勉強もされていたそうで、常に学び続けていますね。
ニクヨ:私は自分のことを「ポンコツ」と認識しています。学ばないと何もできません。常に学んでインプットしなければ、物書きやYouTuberとしてアウトプットできなくなってしまいます。先ほど「ピンチがチェンジのための絶好の機会」というお話をしましたが、もし、私が普段から学んでいなければ、いざチェンジしようとしてもできないと思います。
-SNSやYouTubeでは塩野七生さんの『ローマ人の物語』など、愛読書についても紹介されていますね。
ニクヨ:塩野七生さんは大好き! 写真を見てもあんなにカッコいい人は他にいないと思います。彼女の本の著者経歴には「30歳までイタリアで学びつつ、遊ぶ」とあり、それにもしびれました。そうか!30歳までは「学びつつ、遊んで」いてもいいんだって(笑)。彼女の作品は男性が書くような骨太な作風ですが、女性ならではの考察や男性に対する審美眼が垣間見られ、心から憧れます。他に好きな作家としては内館牧子さん、向田邦子さん、有吉佐和子さん。特に三菱重工業の正社員として働いた後に、作家・脚本家として遅咲きのデビューを飾った内館さんには強いシンパシーを感じています。
-そうしたインプットを通しニクヨさんが発する言葉は磨かれていくのですね。
ニクヨ:私は自分が学んだことを多くの人と分かち合いたい、例えば生きている意味や恋愛、お金や経済について。さまざまなメディアを通してアウトプットすることが私の生きがいです。特に同世代の女性からご支持をいただいていますが、少しでも彼女たちが生きやすくなればよいと思いながら、文章を書いたり、動画を撮影したりしています。お金や投資について話せる女装家は珍しいと思いますので、「幸せになるためのお金の使い方」については特に自分なりにこだわっていきたいと思っています。
-最後に塾生へのメッセージをお願いします。
ニクヨ:政治・経済、環境問題、LGBTQなど人権問題……今の世の中は課題だらけですが、私はむしろ若い人々がそうした課題と向き合える、生きがいを持ちやすい時代だと思っています。どのように困難な課題を解決するか、それを考える楽しみを与えられていると考えてみてはいかがでしょう? そのときに自覚してもらいたいのは、慶應義塾のブランドが持つ意味です。多くの場合、それは社会で有効に機能するでしょう。ただし、既成の権威に逆らい、打ち破ろうとする場合、それが邪魔になることもあるかもしれません。良い、悪いではなく、最終的に一人一人が何をやりたいかが重要です。塾生の方々一人一人がそれぞれにとって本当に幸せな人生をつかんでくれることを望みます。