【慶應義塾とパリ五輪】豊田兼君(環境情報学部在学中)陸上/男子400mハードル
2024年パリオリンピック、陸上/男子400mハードルに出場する豊田兼君の記事がNumber Webに掲載されましたので、ご紹介させていただきます。(引用元:Number Web)
身長195cmの慶応ボーイ…五輪で注目“規格外ハードラー”豊田兼(21歳)を生んだ“偏差値70”桐朋陸上部の教え「高校で日本一にはなれない。でも…」
posted2024/08/04 19:00
text by 生島淳PROFILE
photograph by Yuki Suenaga
これまでの物差しでは、計りきれない大器がパリ・オリンピックに挑む。
豊田兼。
身長195cm、慶應義塾大学の4年生。今回は400mハードル(400mH)の代表となったが、110mハードル(110mH)でも出場を目論んでいたハードル界の「二刀流」である。
豊田の経歴で異色なのは、いわゆる陸上競技の名門校の卒業生ではなく、東京・国立市にある進学校・桐朋高校の出身であることだ。
「小学校から桐朋に通っていました。いまでも戻りたいくらいです」と、本人も笑って話すほど母校愛が強い。
スポーツよりも進学実績で有名な桐朋
桐朋の卒業生といえば、作家の赤川次郎、俳優の西島秀俊、編集の世界では嵐山光三郎といった名前が浮かぶ。そういえば、昨年のM-1グランプリを制した令和ロマンの松井ケムリも桐朋の卒業生だ。スポーツでは今年の高校3年生、野球部の森井翔太郎がドラフト候補と目されているが、要はスポーツよりも進学実績で注目されることの方が多い学校である。
ではなぜ、豊田兼のような大器が育ったのか? その鍵は、顧問の先生にあった。
桐朋での中高6年間、豊田の指導にあたってきたのが外堀宏幸先生だ。外堀先生は鹿児島県出身。筑波大学では走り高跳びの選手として活躍、2000年の日本選手権では2m18cmを跳んで2位、2001年の日本インカレでは優勝した実績を持つ。卒業後も競技を続けていたが、縁あって桐朋の教壇に立つことになり、豊田と出会った。
「桐朋では毎年、体力テストが行われます。豊田は中学1年生の時から『すごい中1がいる』といわれたほどで、そのポテンシャルは図抜けていました」
競技者として日本のトップレベルの選手たちを見てきた外堀先生の目からも、豊田は将来性豊かに映った。しかし、育成を急がなかった。
「学年が上がるにつれ、これはオリンピックを狙えるような素材だなと確信を持つようになりました。おそらく、豊田に関わったことがある人ならば、誰もが感じることでしょう。でも、豊田には『高校では日本一になれないと思うし、ひょっとしたら大学でも日本一にはなれないかもしれないよ』と話していました(笑)」
中学時代は「混成競技」と呼ばれる四種競技(※中学男子は400m・110mH・走高跳・砲丸投の4種目)に取り組んでいた。高校ではハードルに適性が見出されたが、110mH、400mHのどちらかに絞ることなく、高校時代から二刀流を追求していた。
豊田に限ったことではないが、外堀先生は能力が高い選手ほど、専門種目を絞らずに指導している。
「私の考えとしては、様々な種目に取り組むことで、『土台』の面積を広くすることが出来るんじゃないかと考えているんです。そうすれば、大学、社会人になった時にピラミッドの高さが高くなると思うんですよね」
実は、高校2年生だった豊田のポテンシャルを目の当たりにしたことがある。東京多摩地区のブロック大会で、豊田が800mを走るのを目撃したのだ(ウチの息子が同じブロックの800mの選手だった)。
豊田にとって、生まれてはじめての800mだったと思われるが、軽く1分台のタイムを出していた。このタイムは、都大会で決勝を狙えるレベルで、「上に行く選手はモノが違う……」と私は嘆息を漏らした。
外堀先生は笑顔で「あのレースをご覧になったんですね」と話した。
「あの時も、私が『800mに出てみたら』と勧めたわけではありません。豊田が自分から『800mに出たい』ということだったんです。おそらく、自分なりに考えがあったんでしょう」
コロナ禍で豊田が迎えた「転機」
自由闊達な桐朋の雰囲気のなかで、豊田は大きく根を張っていった。
しかし、2020年、豊田が高校3年生の時に新型コロナウイルスが世界を席巻し、計画が狂う。日本でも数多くの大会が失われた。外堀先生は思い出す。
「4月、5月、6月と、大会が開催されるのかどうか分からない状況でした。もしかしたら大会があるかもしれないという一縷の望みをもって、豊田と準備をしていました」
結局その夏、インターハイは開かれなかった。それでも豊田はわずかなチャンスをつかんだ。
2020年8月23日、オリンピックが開かれるはずだった東京・国立競技場で開催されたゴールデングランプリ。本来は国内外の一線級の選手が集う大会だが、将来を嘱望される高校生がトップのアスリートと一緒に競える「ドリームレーン」が設けられた。これは公募形式のもので、外堀先生は豊田に110mHでの応募を勧めた。
「当時、豊田は持ちタイムでいえば高校生ランキングでもトップクラスというわけではありませんでしたが、どういうわけか選んでいただいたんです。ところが、ゴールデングランプリを迎えるまで、走れるかどうか分からない状態でした」
7月25日、豊田は東京選手権に出場、ここで14秒18の自己記録をマークする。ところが、その後に下半身の肉離れに見舞われてしまう。
「これが、かなりひどい肉離れでして。東京選手権のあとの1カ月間はほとんど走れない状態が続きました。豊田がハードリングを再開したのは、ゴールデングランプリの前日、8月22日のことでした」
ここからレースが始まるまでの時間に、外堀先生は豊田から「底知れない集中力」を感じた。
「コロナ、肉離れ、順調に運んだことなど何一つなかったのに、豊田からは研ぎ澄まされたものを感じました。その姿を見て、私は招集所で感極まった状態で豊田を送り出しました」
豊田は1レーン。隣の2レーンには、パリ・オリンピック代表となった村竹ラシッド、5レーンには高山峻野がいた。
ドリームレーンを走った豊田は7着、それでも14秒15の自己ベストをマークする。
「前日までハードリングも出来ない状態だったのに、いったい、どこからこんな力が湧いてきたのか。本当に信じられない思いでした。スイッチが入ったんでしょうね。彼の新たな可能性を見たレースで、私にとっても忘れられない試合になりました」
「上には上の選手がいるんだな」
多くの指導者は、自分が面倒を見ている時に成果を出したいと願う。それは選手のためでもあり、自分のためでもあるだろう。
しかし外堀先生は、高校生の豊田に勝たせようとは考えず、ひたすら土台の拡張を図った。それでも、ドリームレーンは豊田の可能性を大きく開いた。豊田はこのレースのことをこう振り返る。
「上には上の選手がいるんだなと実感しました。自分も上を目指すからには、やらなければいけないことがたくさんあるなと」
豊田はその後、慶応義塾大学に進学。高校時代のレースを間近で見ていただけに、豊田の二刀流の挑戦に注目していた。体が大きくなり、2年生の時には110mHで学生歴代3位となる13秒44をマークしたが、こと400mHに関しては大学2年までの彼の走りは無謀に見えた。
とにかく、最初からぶっ飛ばす。飛ばすとか、そういうレベルではない。とにかく突っ込むのだ。そうして最後のホームストレートで失速し、差される。最初、自重していれば楽に勝てるのに……。
「彼はあれでいいんじゃないですかね」
2年前、世界陸上の400mHで2度の銅メダルを獲得した為末大氏に、豊田のレースっぷりについて話す機会があった。私が懸念を伝えると、侍ハードラーはこう言った。
「彼はあれでいいんじゃないですかね。ひょっとしたら、あの序盤のペースで押し切れる選手になれるかもしれませんよ。これまでの私たちの物差しでは測れない可能性があると思います」
その予言通りになった。昨年10月、豊田は48秒47をマークして、オリンピック参加標準記録(48秒70)を突破した。そのことについて、豊田はこう話している。
「2年生の時まで前半飛ばしていたおかげで、自分の出力がどの程度か、分かるようになりました。3年生の10月に自己ベストが出た時も、想定したタイムよりも最初の100mの入りが0コンマ1秒遅かったんです。そのおかげで後半に余力を残すことが出来て、自己ベストにつながったと思います」
一流は「0秒1」の差を理解し、言語化できる。
そして今年の日本選手権で、400mHで優勝し、パリ・オリンピックへの出場権をつかんだ。
豊田の青春期の6年間、その成長を見つめた外堀先生にとっても感慨深い夏がやってくる。
「豊田は中高時代に同世代で飛びぬけてすごい記録を残したとか、そういうタイプではありませんでした。大学4年の時に、お父さんの母国であるフランスのパリでオリンピックがあるよねとは話していましたが、それも私が勝手に言っていたことで、本人がどう捉えていたかは分かりません。それを実現させてしまうんですから、すごい選手ですよね。パリよりも4年後のロサンゼルスの方がより成長が期待できますが、パリでもいい走りをして欲しいです」
豊田兼が出場する400mHは、現地時間8月5日に予選が行われる。
取材に訪れた日、豊田の後輩たちが土のグラウンドを元気よく走っていた。きっと、彼もそうだったのだろうと思いつつ。