『私は時計』故 北里一郎君著(北里柴三郎記念館 展示品)
先日、訪れた 北里柴三郎記念館 にて拝見した展示品をご紹介させていただきます。永年にわたりまして慶應義塾ならびに理工学部同窓会を支えていただきました、故 北里一郎君が執筆した『私は時計』と、そこに登場する主人公の時計です。北里一郎君は、慶應義塾の元評議員であり、理工学部同窓会の元会長でした。お亡くなりになるまで当会の名誉顧問を務めてくださいました。
ご子息の北里英郎君は、北里大学 名誉教授で北里柴三郎記念館 名誉館長であり、今年10月19日開催の理工学部同窓会 総会・特別講演会にて講演講師を務めてくださいます。先日の事前収録の際、我々のために、こちらの展示品をご用意してくださいました。
北里柴三郎
『私は時計』北里一郎(孫)
私の生まれはヨーロッパ、そして時を告げるのはウエストミンスター寺院の鐘の音で
ある。十五分毎は短い演奏を、時報の時は長い前奏曲を奏でるが、主人の気分で演奏を
止めたい時は左目を調節して貰えば良い。又、右目は、遅れそうになったり、早過ぎた
りした時の調節に使われている。
私の主人は日本の細菌学者、その名を北里柴三郎と言った。ドイツに六年以上も留学
して、ベルリンのコッホ研究所で破傷風菌を発見したり、帰国して福澤諭吉先生の援助
で伝染病研究所を設立したり、又後に北里研究所を創立した人である。
私の住まいは麻布仲之町、洋風二階建て建物の階下の応援間であった。隣には食堂が
あり、階上には書斎や、寝室が設けられていた。この建物に連なって建てられた、総二
階日本造りの母屋は、寄宿舎の様な、又田舎の料亭の様な馬鹿でかいものであるが、主
人自らの設計が施されて居り、防虫や衛生環境に、細菌学者らしい細心の注意が払われ
ていた。
私の主人は大きな声の持ち主であった。この応接間の私の目の前で、様々な人に雷が
落ちた。子弟であれ、雇い人であれ、家族であれ、差別は無かったが、初対面の人には
落ちなかった様である。お客と対談中に呼ばれた人は、直立不動で命令を聞き、用件を
直ちに足すため、足早に去る光景をいつも見て居た。又主人は、時間に遅れるのが嫌い
な性格で、若し五分でも遅れようものなら、私にも雷が落ちた。しかし何故かこれらは、
爽やかな憶い出として今残っている。
部屋に誰も居ない時の、庭の眺めは素晴らしかった。大きな池の周りには、松の木を
始め沢山の樹木や庭石が配置されていた。又ひと頃池には、丹頂鶴、孔雀、尾長鶴等数
十種の水鳥が居て、実に賑やかであった。
此の部屋には、様々な偉い人が尋ねて来た。今迄で主人が、最大の歓迎をしたのは、
恩師ローベルト・コッホ博士夫妻が見えた時であった。この日ばかりは大機嫌で、家族
全員と共に記念写真に収まった。
私の主人は、良く鼾をかいた。二階にある寝室から、階下の応接間迄聞こえる程、強
烈なものであった。然し乍ら或る日突然、その鼾が聞こえなくなった。一九三一年六月
十三日、その日から私は、あの雄大な姿を見ることか出来なくなった。
暫くして私は、青山にある家の応接間に引き取られた。新しい主人の名前は北里善次
郎、前の主人の次男であった。私の座ったところは、飾りのマントルピースの上で、左
側にピアノが見えて居たのを憶えている。時々男の子がゼンマイを持って現れ、私の空
腹感を満たして行って呉れた。その名は北里一郎、今の主人である。
或る夜私は、大事に抱えられて地下への階段を降り、棚に乗せられた。大変狭苦しい
が、どうにか生活は出来そうなところであった。翌日、入口の隙き間から外を見て驚い
た。十四年間住み馴れた応接間はもとより、建物全部、跡形も無く消えて居た。一九四
五年五月二十五日、空襲の為せる業であった。防空壕の生活から抜け出た私は、青山か
ら世田谷へと移り住み、今の主人に仕えて三十年、そろそろ身体にガタが来て居る。
初代の主人から三代目迄、理系の教育を受けた人に受け継がれた。そして四代目は初
代が学部長を務めた慶応義塾医学部に居る。早く次の主人のもとでドック入りし、未だ
未だ長生きしたいものである。(会社員・84年1月)
遺品逸品(偉人たちのとっておきの話)徳川斉正/斎藤茂太ほか
KOBUNSHA 光文社